latfiheの断面図

考えごとの成果を書きます。

納得するとはどういうことか(3)

納得の話その3です。前回は納得感がなぜ大切か、どのような役割があるかについて書きました。今回は、納得感がどんなものであるかに少し迫るような話です。

僕が指摘したいのは、納得がいくのは快いもので、納得がいかないのは不快なものであるというところです。リラックスした状態と負荷がかかった状態と言ってもいいかもしれません。*1誰だって納得いかないよりはいく方がいいと思います。これまでの記事では、納得感を「ある種の感覚」としてしか扱っていませんでしたが、それがプラスの方向性の感覚だという特徴を付け加えた点が話が進んだ部分です。

プラスだったりマイナスだったりする感覚があるということは、人間はプラスの方を感じる方向性で行動するようになっているということです。*2少し普通と違うのは、「納得がいく方向性で行動する」ことは別に何か体を動かすような行動ではなく、頭の中で完結している点です。例えばおいしいから甘いものを食べよう、といったような感覚と行動の組み合わせに比べると抽象的です。

その行動とは、前回「納得は思考のスイッチ」だと主張したように、物を考えることだと思います。つまり、納得がいかない感覚は物を考えようというシグナルで、納得がいく感覚は考えるのをやめてよいというシグナルだということです。マイナスの感覚によって行動を引き起こし、プラスの感覚を得ることを目指すというのは他の行動と共通していて、思考という行動も同じ仲間として考えられそうです。

思考というものがポイントになってきていますが、これについて一つ問題があります。例えば熱さの感覚は皮膚からのシグナルが意識に届いたもののはずです。一方納得感は、特定のセンサーがあるというより、もっと様々な情報を総合して発せられていそうです。この情報を総合するという作業は、きっと脳の中で神経細胞が情報をやり取りして行われています。さて、それは思考ではないのでしょうか。意識的に「思考という行動」をするという言い方は、無意識に行われる情報処理をある意味見過ごしているのかもしれません。脳が情報を処理することの全体を思考と呼ぶのならば、納得感が関係しているのは、思考全体のうちの意識的に働かせなければならない一部だけ*3ということになります。別の言い方をすると、意識は、無意識の思考によって嚙み砕かれた状態の情報を渡され、それを処理していて、その処理のスイッチが納得感だということです。

ここまで来ると、納得感を引き起こすものは何かという問題を別の形に書き換えられます。納得感は、人間が情報を処理する過程の中で、意識的な思考を働かせたり休ませたりするスイッチのようなものだということでした。すると問題になるのは、情報を処理する過程全体の中で、意識的な思考が持つ役割は何か*4ということです。その役割を十分果たしたとき、納得感が生じるようになっているはずです。

話の流れとしてはここまででよいのですが、最後に少し言い訳です。納得感が快であるとか言うと、この人は「思考という行動もしょせん欲望の追求に過ぎない」みたいなことを主張し始めた感じがします。ところが納得感を求めることはばかにできたものではなくて、*5それは元気に生きるために欠かせないものだと思っています。納得感を与えてくれるもの、信じられるものがないとなかなか厳しいのではないでしょうか。

 

今回の話はここまでです。この続きの話のタイトルは「意識は何をしているのか」とかになるかもしれません。まだ一文字も書いていません。

*1:快/不快っていう言い方をすると僕が意図しているより少しきつく感じる人がいる気がします。あとちょっと陳腐な感じがして好きじゃないです。

*2:といっても、複数の感覚が反対の方向性の行動を求めてくることもよくあります。あくまでその方向に引っ張る要素があるというだけです。

*3:なんとなくですが、これはほんのわずかな一部なのではないかと思っています。

*4:どんどん考えづらい問題になっていく…

*5:いや、進化の過程で定められた方向性に制限されずに自由な思考ができたら、どんな世界が見えるのだろうという憧れのようなものはあります。

どちらが上か決まらないときもある

 私たちはものを考えるとき、比較することを頻繫にしています。ものの大きさ、時間の長さ、人数など比較される項目はたくさんあります。一方で、比較しても答えが決まらないような状況も多いです。例えば、「翻車魚」と「鬼頭魚」のどちらが読むのが難しい漢字でしょうか。織田信長徳川家康はどちらの方が重要な人物でしょうか。

 しかし、漢字の難しさや、人物の重要さといったものに対しても、なんとか上下関係を生み出そうとすることがよくあります。漢検一級の漢字は三級の漢字より難しいとか、参考書で★が3つ付いている人名は★1つより重要とかです。これは、「難しさ」や「重要さ」を、「大きさ」や「数」といったものと同様に取り扱っていると捉えることができます。

 こんなことをする理由は、私たちが「量」や「数」を使ってものを考えるのが得意だからではないでしょうか。水の量とか人の数とかについて考える能力を、より抽象的な概念に応用しているのかもしれません。とはいえやはりこれには少し無理があって、本当に「難しさ」という量があるのだとしたら、どちらが難しいか定まらないといったことは起こらないはずです。*1

 なんとかして、どちらが上か定めることができないような概念を、「どちらが上か定まらない」という性質を壊さずに取り扱うことはできないでしょうか。別に答えを提案できるわけではないですが、*2数学の授業で気になる話を聞いたので紹介します。*3二つの要素を取り出して比較したら、必ずどちらが上か定まる(または全く同じ)ような比較基準をもつ集合のことを、全順序集合と呼ぶそうです。*4水の量や人の数など、必ずどちらが上か定まるようなものは全順序を使ってうまく表せるでしょう。定まらないようなものを全順序を使って表現しようとすると無理が出てしまうというのが、先ほどの例から読み取れることかもしれません。

 ウィキペディア*5を読み進めると、私たちが普段使っている数と全順序の関わりが書いてあります。全順序集合の中でも、いくらでも大きい(いくらでも上の)要素があるようなものは、私たちが日ごろ使っている整数や有理数に一致するそうです。*6すき間があるなら整数、間が詰まっているなら有理数です。物理とか、経済とか、身の回りの現象を数学を使って理解しようとする人たちは、整数や有理数(や実数)*7をよく使って世界にあるものを表しています。つまり、全順序、どちらが上か決まるような基準をつかっているということです。確かに物理で主に取り扱われている、時間とか、位置とか、重さとかの概念は、どれもはっきりと比較することができます。

 逆に、比較することができないようなものはうまく表すことができないことになります。しかし、世界はそういうものだらけなはずです。難しさのことも、重要さのこともよく分からないことになってしまいます。数学の概念としては、全順序集合はいろいろな集合の一部でしかなく、そうでない集合の特徴も調べられています。そういうものをうまく使って世の中のものを表現できたら、もしかするとより多くのものを深く理解することができるかもしれません。難しいか。

*1:難しさの差が小さいからどちらが難しいか分からないということではないか、という考えもあると思います。絶対そうではないと言い切ることはできないのですが、世の中にいろいろな人がいて、いろいろなことができたりできなかったりする、という複雑な状況を、ひとつの量に落とし込むなんて無理があると考える方が自然だと感じています。

*2:なのでこの文章はすっきりしない感じで終わります。

*3:こういうことに詳しいわけではないのでお手柔らかにお願いします。

*4:細かく説明すると、「クラスの人」のような比較対象のものの集まりを「集合」、「身長が大きい」「体重が重い」といった比較項目を「二項関係」と呼び、必ずどちらが上か定まる二項関係のことを「全順序」というそうです。(他にもいくつか条件があります)

*5:全順序 - Wikipedia

*6:本当は、そういう集合のうち一番シンプルなものが整数や有理数に一致します。また、この「一致」の概念もちゃんと勉強すると長くなるやつです。

*7:と、その組み合わせ

納得するとはどういうことか(2)

 納得の話の第二話です。前回は、僕が考えている問題がどんなものかを説明しただけでした。今回は、この問題が悩むに値する、重要な問題であると思う理由を説明します。

なぜ重要なのか

 第一の重要性は、納得感が「正しさ」*1の指標として使われていることです。*2僕たちは納得がいくもののことを正しいと感じます。それはそうだと思ってもらえると思います。そして、何が正しいかを決める感覚がどんなときに引き起こされるかは、みなさんも知りたいと思います。

 さらに、一度正しいと思ったことは頭の中にストックされて、以後はいちいち同じ思考をくり返さなくても事実として扱えるようになります。「信じる」ってこういうことだと思います。この機能は、考えなければならないことを節約し、使える道具を増やしてくれる*3もので、僕たちの役にとても立っています。その人にとって何が正しいのかを決め、信じられるものを作るというのが、納得感の重要な役割です。

 せっかくなので例を挙げてみます。数学を教えるアルバイトで出会ったのですが、「背理法*4が納得いかない人がいます。背理法は(少なくとも、その時出てきた数学の問題に適用する限りでは)正しいです。しかし、その正しさを感じ取れる人とそうでない人がいるのです。そして正しいと思えた人は、それ以降思考に負担をかけずに背理法を使えるようになります。なぜそのような差が生まれてしまうのかは、やはり重要な問題だと思います。

 ここでひとつ注意点です。前回僕は納得感を引き起こすものが何なのかが問題だ、と書きました。しかし今書いたことを読んで、「正しさが納得感を引き起こす」のが答えじゃないかと思ったかもしれません。そういうことが言いたいんじゃないよと少し説明させてください。非常に言葉で表現しづらいのですが、上に書いたことで言いたいのは、納得感を感じたとき、心に浮かぶものが正しさであるということです。難しいのは、ある感覚を引き起こすものと、それを感じたときに心に浮かぶものを、同じ言葉で呼ぶことが多いところです。例えば、温度の感覚の場合、熱いものに触れると、細胞が刺激され、熱さを感じます。言うなれば、「物体の熱さが心の中の熱さを引き起こしている」*5という状況です。両者を区別して認識するのは難しいですが、中間に感覚が刺激されるというプロセスが挟まっていることを意識すれば、これらは別物であるという気がしてくるのではないでしょうか。*6僕が追い求めているのは、物体の熱さにあたるものの方です。

 ややこしい話が挟まってしまいましたが、納得感の重要性の話に戻ります。第二の重要性は、納得感は僕たちの思考のスイッチになっているということです。分からないことがあると、僕たちの思考は働き始め、納得がいったら思考は止まります。僕たちの思考能力は素晴らしいものですが、そもそも働かせられなければ宝の持ち腐れです。納得感が負っている責任は重大です。

 皆さんにその重大さを実感してもらうために、納得感の思考のスイッチとしての機能がうまく働いていないとどうなるか考えてみます。第一のパターンは、考えるべき時なのに納得がいってしまう場合です。「分かった気になってしまう」とか、「だまされる」とかはこの状況なのではないでしょうか。どちらも、本当はもっとよく考えるべきなのに、納得がいって思考が落ち着いてしまうという状況です。*7

 もうひとつは、必要がないのに、納得がいかなくて考えてしまう場合です。説明を受けたりしたときに「分からない」のはこの状態ではないでしょうか。本当は正しいことを言われているのに、そうは思えないときもありますよね。これらをまとめると、納得感は私たちに思考をすべきときを教えてくれる存在だといえます。何が納得を引き起こすのかという問題は、私たちの思考はどんなときに働くようにできているのかという問題でもあります。

 

 今回はこれくらいで。納得感は、私たちの思考という機能が役に立つものであるためにとても重要だとまとめられそうです。次回は、少しだけ納得の正体に迫るような記事を予定しています。感想・コメントなどお待ちしています。

 

*1:いろいろな正しさがあると思います。しかし、納得感に対応しているのはそれらの周辺にぼんやりと広がる概念です。そのため、ここで正しさの中身をはっきりさせることはしません。

*2:他の使われ方もあります。前回記事のエッグチーズバーガーの例は、何が正しいとかいう話ではありませんでした。

*3:納得していなくても、繰り返し同じことをしていればやがて何も考えずにそれをするようになる、というのも使える道具の増やし方のひとつです。数学の定理とか、けっこうそのパターンあると思います。

*4:ある命題が真であることを、その命題の否定が他の事実と矛盾するということから示すテクニック

*5:人間が観測しているのは心の中の方だけなのだから、物体の方が存在する証拠などないじゃないか、という考え方もあるとかないとか。ううむ。

*6:実は温度の場合なら、体の外で起こっている現象と頭の中で起こっている現象の違いです、と言ってしまえば済むことです。しかし、納得感の場合だと、すべて頭の中に入ってしまっているので、こうはいきません。(アイデア:実は納得感の場合はこの両者の区別などなくて、意識が持つ何らかの性質によって差があるような気がしてしまっているだけなのではないか)

*7:納得してスイッチが切れてしまって思考が働かないのとは別に、ボーッとしてしまって思考が働かないのもひとつのパターンといえそうです。納得がいく/いかないの軸だけで語りきれない思考の振る舞いはやはり多いです。

言葉に負けない

 私たちは、自分の頭の中にあるものをさまざまな形で表現しています。その中でも言葉は一番有力な表現のしかたです。表現できる内容の幅も広いですし、声にのせることも文字にのせることもできるという他にない強みがあります。そのため、言葉は僕たちが情報をやり取りするのに一番よく使われています。

 しかし、言葉にも表現するのが得意なこと、苦手なことがあるはずです。それでも他の表現のしかたで代用できる場面は少なく、苦手な内容でもどうにか言葉で表すしかない場合が多いように思われます。*1この結果、本来対等な内容でも、言葉で表しやすいものほど人々の間に伝わりやすいことになります。例えば、駅の出口で傘を開いているときに、なぜ傘を開くのか尋ねられたとします。雨が降っているならば、「 雨が降っているからです。」と答えるだけです。*2一方、「 さっき電車のドアに傘が挟まれてしまって、骨が折れたりしていないかどうか確認するためです。」というのが答えの場合は大変です。どちらの答えも妥当な理由ですが、言葉を使った表現のしやすさには大きな差があります。僕は後者の答えがスラスラ口から出てくる自信はありません。

 傘を開く理由くらいは大したことないですが、例えば自分の意見を提示しないといけないとき、それもその意見が今後に影響するようなときだと困ります。*3自分が持った意見がたまたま言葉で言い表しやすかったかどうかで、周りの人たちに自分の望みを納得してもらえるか、さらにそれが実現するかが左右されてしまうのは不公平です。この不公平を少しでも和らげるためには、他の人の意見の背後に言葉になりきれていない部分があるのではないかと考えることが役に立つと思いました。*4これは難しいです。まず、誰かの話を聞いて最初にした解釈を一旦保留して、それ以外にもっと伝えようとしていることがあるかもしれないともう一歩先へ進むことが難しいです。*5第二の難しさは、話している人自身の考えが不完全な自分の言葉に影響されてしまう点です。後半はこれに関する話です。

 僕たちが頭の中でものを考えるときも、言葉を使うことは有効です。頭に浮かんだものを言葉の形にすることで、忘れづらくなったり、客観的に見つめられるようになったりします。紙に書き出すのと似ているかもしれません。*6そのような理由を意識するまでもなく、皆さんは常に自分の考えたことや感じたことを言葉で表すことをしているでしょう。

 こういうときにも、言葉で表現しやすさの問題が影響します。頭に浮かんだものを言葉で表すときに、より表現しやすい内容に入れ替わってしまうことがあるのです。例えばある人の話を聞いて、否定的な感想を覚えたとしましょう。その話に間違いがあるとしたら、「それは違うと思った」とその感想を表現できます。非常に分かりやすいです。しかしその感想は本当に合っているか、間違っているかから来たものでしょうか。実際にはその人の話の内容や話し方から、背後にあるその人の考え方を読み取り、それに対して感想を抱いているのかもしれません。そうだとしたら、ちょっと論理を細工して間違いの部分を修正しても、感想は変わらないはずです。しかし、頭の中で自分の抱いた感想を「それは違うと思った」と表現したことによって、いや、違くないじゃないかと自分で自分の感想を否定してしまうかもしれません。感じたことは同じなのに、それを言葉にしやすい状況になっているかによって、自分の感性を肯定できるかが左右されています。

 先ほど話していた意見の表現しきれていない部分を見捨てない難しさも、こういう状況の一例です。意見を言葉にしたことによって、本来持っていた考えを反映しきれていなかったとしても、自分自身の言葉で考えが塗り替えられてしまっているかもしれないのです。こういうときに、あなたは本当はこういうことを考えているんじゃないですかと聞いても、いや違うよとなるだけです。

 頭の中で言葉を編み出さずに思考を進めるのはとても無理です。それによって自由な思考が妨げられてしまうとすると、ここに人間の思考に立ちふさがるひとつの壁があると言えそうです。自分で自分の考えを歪めてしまうのは、不幸なことだと思います。それどころか、自分が伝えた言葉によって誰かの考えを歪めてしまうことも起こりえます。*7僕にはこれは暴力的にすら感じられます。自分自身も、周りの人も、自由に感じたり考えたりしてほしいと思うのですが、それを実現するような言葉の使い方とはどんなものでしょうか。僕は今はまだ試みているだけです。

*1:例えばものの形は言葉にするより描いた方が伝えやすいです。しかし、そのような他の表し方を使えないような内容の間でも、言葉を使った表現の有効さにはばらつきがあるはずだということを書こうとしています。

*2:質問する方がどうかしているという点は気にしないでください。

*3:どんなときだか分かりづらいかもしれません。例として、僕がここに書いているようなことを最初に思ったのは確か中3のときの学級会でした。

*4:それを俺が表現してやるのだと使命感のようなものを感じたときもありました。

*5:ひとつ答えが出たときに考えることをやめないのは常に難しいです。

*6:本当は、言葉の形にした方が気持ちが落ち着くということが動機として大きいかもしれません。具体的な形がある方が頭の負荷が軽くなるのではないでしょうか。このトピックは「納得」の方の記事でそのうち触れたいと思います。

*7:言葉を伝えることは、相手の頭の中にその言葉を導入することです。会話に出てくる言葉を冷静に見てみると、驚くほど多くの言葉が相手から聞いた言葉を再利用したものです。

嫌いな野菜ランキング

第3位 ムラサキキャベツ

 彩りの交換条件として受け入れられるパンチの強さではない。「キャベツの色違いやろ?」って心づもりで食べて寝首を掻かれた。すごい野性的な刺激があるよね。森に住んでるムラサキキャベツを飼いならしたものがキャベツですって言われたら信じると思う。pHを指示する役割に専念してほしい。*1全国のサイエンス少年少女の笑顔が見たいでしょ?

第2位 ニンジン

 甘いのは分かります。でもその甘みがおいしさにつながってない。*2なんか嚙んでると「俺は植物の根だぞ!」っていう確かな自負を感じさせる匂いがするよね。ダイコンを見習ってほしいよね。色まで白くなっちゃってさ。まあ確かにニンジンの方が栄養ありそうな味ではある。はいはい栄養栄養。

 僕は火を通した野菜は基本的においしく食べられるんだけど、ニンジンはどうしてあんなに加熱しても毒気が抜けないんだろうね。カレーに入っててもニンジンはニンジンじゃん。カレー食べてるといっつも最後ニンジンばっかになる。*3でも味が濃いおかげかあんま大量に出てこないのは助かる。

ここで番外編

ランクインするほどでもない嬉しくない野菜たちです。

・サラダに入ってるコーン

酸っぱいドレッシングとの組み合わせを受け入れられない。

芽キャベツ

マジ洒落にならない味した記憶あるけど一回しか食べたことないから選外。キャベツの悪の側面を凝縮したピッコロみたいな存在。

・スーパーのお弁当の角にいる冗談みたいにしょっぱい漬物

絶対食べない方が健康的だよねあれ。

・トンカツに大量のキャベツの千切りが添えられている状況

別に山ほどあったからといって加点要素にはならなくない?飽きるじゃん。

・パセリ

味がヤバすぎて逆に口の中を清浄にする薬草として受け入れられる。

第1位 キュウリ

 あんまり味しないのは分かります。ピーマンとかトマトとか、主張の強いやつは他にいっぱいいます。でもなんか絶妙においしくないんだよ。ピンポイントで嫌な味がしてる。青臭さのなかでも一番嫌な青臭さがしてる。ピーマンの青臭さを普通の緑色で表すとすると、キュウリは杉林みたいな青みがかった深緑*4みたいな感じ。こんなこと言ったらひどいのかなって気もするけど、正直パクチーよりカメムシ感あると思う。

 嫌すぎて輪切りのキュウリを5口くらいに分けてかじってたから分かるんですけど、真ん中の種の部分がいっちゃんおいしくない。あと、成長しすぎて種が大きくなってきてるキュウリ*5は特においしくない。だから僕が言っているキュウリのおいしくなさがあんまり感じ取れないよって方は、育ちすぎたキュウリの種の部分だけを集めてほおばってみてください。そして30回噛むまで飲み込んじゃダメです。*6そうすればきっと僕が何が言いたいか分かると思います。

 キュウリは出てき方もよくない。何の逃げ場もない使われ方ばっかりするじゃん。量的にも多かったりするし。サラダのキュウリとか、口にいる時間の最初の2割ぐらいしかドレッシングの味しないから後の8割ずっとキュウリの味とタイマンすることになる。むしろ使われ方さえ改めてくれれば割といけるのかもしれない。中華の味の濃い炒め物とかなら大丈夫だったし。ヨーロッパの人とかスープにキュウリ入れたりするよね。*7結論、日本人よもっと積極的に野菜に火を通せっていうことすかね。

*1:Using a cabbage to do chemistry - YouTube

*2:グラッセとかいうやつなんであんなに厳しい味するんだろね。

*3:中華丼、筑前煮なども同様。

*4:杉林の色なんか覚えとらんわという方は、高速道路を走っていてワーめっちゃ山の中じゃんってなったときのことを思い出してください。その色です。

*5:種がスイカみたいな形してるの分かるくらいのやつたまにあるでしょ。

*6:罰ゲームすぎるだろ。想像もしたくないわ。

*7:スープのキュウリは、割と大丈夫だったこともあるし、スープ全体がキュウリ味になってこの世の終わりだったこともあります。

納得するとはどういうことか(1)

 しばらく前から、僕は「納得する」とはどういうことかをずっと考えています。この問題が、人間がものを考え、考えたことを行動に反映する行為の全体に関わってきていると思うのです。あまりにも大きな問題で、なかなか答えに近づけそうにはないですが、いくつかの記事にかけて*1連載形式で、僕が今考えついていることを書こうと思います。もしよかったら、これを読んでいるみなさんもこの問題に取り組んで、考えたことを教えてください。この記事を公開したことで少しでも問題の解決に近づくことを望みます。

 これから書く内容の多くは、僕が自分自身の思考をなるべく客観的に観察しようと努めた成果からできています。客観的になりきれていない部分があったり、そもそも僕の思考に特有で、他の人には当てはまらないところがあるかもしれません。

何が問題なのか

 まず、僕が気になっていることの内容を詳しく説明します。ポイントになるのは、「納得がいく」というのは感覚の一種*2であるということです。温かいとか冷たいとかの感覚と同種のものということです。そして、僕が気になっているのは、その「納得がいく感覚」がどんなときに引き起こされるかです。温度の感覚は、温度が高かったり低かったりするものに触れると引き起こされるとみんな知っています。納得がいく感覚は、いったい何に反応しているのでしょうか。

 納得がいくというのが感覚の一種である、とはどういうことか説明しないわけにはいきません。ものを考えているときに、納得がいくことがあります。しかし、納得は思考そのものとは別物のように思われるのです。その区別を表現するために、「思考ではなく」感覚の側に納得を置いているのです。*3

 例えば、人と話していて「マックの江口」という人物が登場したとします。誰だよそいつ。記憶を巡らせて、そのような名前のバイトがいなかったかと探します。そもそも何その話題?そして、江口が人名ではなくエッグチーズバーガーの略称であったことに気づきます。*4納得がいきました。

 この例で、記憶を辿っている部分が僕の言う「思考」で、納得がいったところはそれとは少し違うのだと今主張しています。注目していただきたいのは、納得感は条件が整ったときに勝手に向こうからやってきたのであって、こちらが呼び起こそうとしたわけではないという点です。記憶を辿ることは自分の意志で行っていることで、納得感だけが意識の働きとは無関係に現れています。これが僕が納得を感覚の一種とする理由です。

 温度の感覚と比べてみましょう。湯船に入っているお湯の温度を知りたいとします。湯気がもうもうと上がっており、見るからに熱そうです。火傷しないように指先をそっとお湯に触れさせます。(この部分が思考です。)案の定熱い。この感覚は自分の意識とは無関係に生じています。熱いと感じようとして熱さを呼び起こしているわけではありません。温度を感じる細胞が勝手に反応するから熱いのです。この流れは納得感の場合と共通しています。意識的にある機能を働かせ、条件が満たされたときに感覚が流れ込んでくる。これが共通点です。納得が感覚の一種であるといえる気がして来たでしょうか。違う点は、納得感の方ではすべての過程が頭の中に納まっていることだけです。*5

 納得という感覚を引き起こすものは何かが問題だという話なのでした。まとめると、温度を感じる細胞が熱いものに触れたときのように、何かの条件が満たされると納得感が発生する。その条件とは何か。というのが僕が知りたいことです。

 

 今回はとりあえずここまでにしておきます。納得感がどういう感覚なのかが気になる、という話でした。この連載の次回は、この問題がなぜ重要なのかについて書く予定です。質問や感想など、ぜひコメントしてください。twitterのDMとかでもいいよ。

 

 

*1:今回書くのは問題提起くらいにしようと思います。一つの記事に長々書くと読む気が失せるし、書く方も続かない気がします。

*2:「わかった」という感覚といってもいいでしょう。

*3:思考も感覚が作っているものとして捉えることもできる、と言われると苦しいです。思考と感覚の区別はなんとなく受け入れてほしいです。

*4:そして、そのいけ好かない略称を俺の前で二度と使うな、と迫ります。

*5:もっとも、このせいで客観的な分析がしづらいから難しいのですが。