latfiheの断面図

考えごとの成果を書きます。

納得するとはどういうことか(1)

 しばらく前から、僕は「納得する」とはどういうことかをずっと考えています。この問題が、人間がものを考え、考えたことを行動に反映する行為の全体に関わってきていると思うのです。あまりにも大きな問題で、なかなか答えに近づけそうにはないですが、いくつかの記事にかけて*1連載形式で、僕が今考えついていることを書こうと思います。もしよかったら、これを読んでいるみなさんもこの問題に取り組んで、考えたことを教えてください。この記事を公開したことで少しでも問題の解決に近づくことを望みます。

 これから書く内容の多くは、僕が自分自身の思考をなるべく客観的に観察しようと努めた成果からできています。客観的になりきれていない部分があったり、そもそも僕の思考に特有で、他の人には当てはまらないところがあるかもしれません。

何が問題なのか

 まず、僕が気になっていることの内容を詳しく説明します。ポイントになるのは、「納得がいく」というのは感覚の一種*2であるということです。温かいとか冷たいとかの感覚と同種のものということです。そして、僕が気になっているのは、その「納得がいく感覚」がどんなときに引き起こされるかです。温度の感覚は、温度が高かったり低かったりするものに触れると引き起こされるとみんな知っています。納得がいく感覚は、いったい何に反応しているのでしょうか。

 納得がいくというのが感覚の一種である、とはどういうことか説明しないわけにはいきません。ものを考えているときに、納得がいくことがあります。しかし、納得は思考そのものとは別物のように思われるのです。その区別を表現するために、「思考ではなく」感覚の側に納得を置いているのです。*3

 例えば、人と話していて「マックの江口」という人物が登場したとします。誰だよそいつ。記憶を巡らせて、そのような名前のバイトがいなかったかと探します。そもそも何その話題?そして、江口が人名ではなくエッグチーズバーガーの略称であったことに気づきます。*4納得がいきました。

 この例で、記憶を辿っている部分が僕の言う「思考」で、納得がいったところはそれとは少し違うのだと今主張しています。注目していただきたいのは、納得感は条件が整ったときに勝手に向こうからやってきたのであって、こちらが呼び起こそうとしたわけではないという点です。記憶を辿ることは自分の意志で行っていることで、納得感だけが意識の働きとは無関係に現れています。これが僕が納得を感覚の一種とする理由です。

 温度の感覚と比べてみましょう。湯船に入っているお湯の温度を知りたいとします。湯気がもうもうと上がっており、見るからに熱そうです。火傷しないように指先をそっとお湯に触れさせます。(この部分が思考です。)案の定熱い。この感覚は自分の意識とは無関係に生じています。熱いと感じようとして熱さを呼び起こしているわけではありません。温度を感じる細胞が勝手に反応するから熱いのです。この流れは納得感の場合と共通しています。意識的にある機能を働かせ、条件が満たされたときに感覚が流れ込んでくる。これが共通点です。納得が感覚の一種であるといえる気がして来たでしょうか。違う点は、納得感の方ではすべての過程が頭の中に納まっていることだけです。*5

 納得という感覚を引き起こすものは何かが問題だという話なのでした。まとめると、温度を感じる細胞が熱いものに触れたときのように、何かの条件が満たされると納得感が発生する。その条件とは何か。というのが僕が知りたいことです。

 

 今回はとりあえずここまでにしておきます。納得感がどういう感覚なのかが気になる、という話でした。この連載の次回は、この問題がなぜ重要なのかについて書く予定です。質問や感想など、ぜひコメントしてください。twitterのDMとかでもいいよ。

 

 

*1:今回書くのは問題提起くらいにしようと思います。一つの記事に長々書くと読む気が失せるし、書く方も続かない気がします。

*2:「わかった」という感覚といってもいいでしょう。

*3:思考も感覚が作っているものとして捉えることもできる、と言われると苦しいです。思考と感覚の区別はなんとなく受け入れてほしいです。

*4:そして、そのいけ好かない略称を俺の前で二度と使うな、と迫ります。

*5:もっとも、このせいで客観的な分析がしづらいから難しいのですが。