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考えごとの成果を書きます。

納得するとはどういうことか(3)

納得の話その3です。前回は納得感がなぜ大切か、どのような役割があるかについて書きました。今回は、納得感がどんなものであるかに少し迫るような話です。

僕が指摘したいのは、納得がいくのは快いもので、納得がいかないのは不快なものであるというところです。リラックスした状態と負荷がかかった状態と言ってもいいかもしれません。*1誰だって納得いかないよりはいく方がいいと思います。これまでの記事では、納得感を「ある種の感覚」としてしか扱っていませんでしたが、それがプラスの方向性の感覚だという特徴を付け加えた点が話が進んだ部分です。

プラスだったりマイナスだったりする感覚があるということは、人間はプラスの方を感じる方向性で行動するようになっているということです。*2少し普通と違うのは、「納得がいく方向性で行動する」ことは別に何か体を動かすような行動ではなく、頭の中で完結している点です。例えばおいしいから甘いものを食べよう、といったような感覚と行動の組み合わせに比べると抽象的です。

その行動とは、前回「納得は思考のスイッチ」だと主張したように、物を考えることだと思います。つまり、納得がいかない感覚は物を考えようというシグナルで、納得がいく感覚は考えるのをやめてよいというシグナルだということです。マイナスの感覚によって行動を引き起こし、プラスの感覚を得ることを目指すというのは他の行動と共通していて、思考という行動も同じ仲間として考えられそうです。

思考というものがポイントになってきていますが、これについて一つ問題があります。例えば熱さの感覚は皮膚からのシグナルが意識に届いたもののはずです。一方納得感は、特定のセンサーがあるというより、もっと様々な情報を総合して発せられていそうです。この情報を総合するという作業は、きっと脳の中で神経細胞が情報をやり取りして行われています。さて、それは思考ではないのでしょうか。意識的に「思考という行動」をするという言い方は、無意識に行われる情報処理をある意味見過ごしているのかもしれません。脳が情報を処理することの全体を思考と呼ぶのならば、納得感が関係しているのは、思考全体のうちの意識的に働かせなければならない一部だけ*3ということになります。別の言い方をすると、意識は、無意識の思考によって嚙み砕かれた状態の情報を渡され、それを処理していて、その処理のスイッチが納得感だということです。

ここまで来ると、納得感を引き起こすものは何かという問題を別の形に書き換えられます。納得感は、人間が情報を処理する過程の中で、意識的な思考を働かせたり休ませたりするスイッチのようなものだということでした。すると問題になるのは、情報を処理する過程全体の中で、意識的な思考が持つ役割は何か*4ということです。その役割を十分果たしたとき、納得感が生じるようになっているはずです。

話の流れとしてはここまででよいのですが、最後に少し言い訳です。納得感が快であるとか言うと、この人は「思考という行動もしょせん欲望の追求に過ぎない」みたいなことを主張し始めた感じがします。ところが納得感を求めることはばかにできたものではなくて、*5それは元気に生きるために欠かせないものだと思っています。納得感を与えてくれるもの、信じられるものがないとなかなか厳しいのではないでしょうか。

 

今回の話はここまでです。この続きの話のタイトルは「意識は何をしているのか」とかになるかもしれません。まだ一文字も書いていません。

*1:快/不快っていう言い方をすると僕が意図しているより少しきつく感じる人がいる気がします。あとちょっと陳腐な感じがして好きじゃないです。

*2:といっても、複数の感覚が反対の方向性の行動を求めてくることもよくあります。あくまでその方向に引っ張る要素があるというだけです。

*3:なんとなくですが、これはほんのわずかな一部なのではないかと思っています。

*4:どんどん考えづらい問題になっていく…

*5:いや、進化の過程で定められた方向性に制限されずに自由な思考ができたら、どんな世界が見えるのだろうという憧れのようなものはあります。